's Honey

Sing or die, die or sing.

ライブスケジュール

2017年

  ■ 2月17日(金) 名古屋栄 live Doxy (リーダーライブ)

 

    ピアノ 工藤雄一さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム なりしげひろしさん


 

  ■ 3月18日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

 

 

 

アーカイブ

2016年

  ■ 11月4日(金) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

    ピアノ 工藤雄一さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム なりしげひろしさん


    

  ■ 10月14日(金) 名古屋栄 live Doxy (リーダーライブ)

 

    ピアノ 工藤雄一さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム なりしげひろしさん


 

  ■ 9月22日~25日 なりしげひろしトリオ with guest vocal スハニー 九州ツアー

 

  9月22日(祝) 鹿児島 明日の地図

    ピアノ 加東伸一さん

    ベース 森しのぶさん

    ドラム なりしげひろしさん

 

  9月23日(金) 福岡 THE FIVE PENNIES

    ピアノ 内田由美子さん

    ベース 森しのぶさん

    ドラム なりしげひろしさん

 

  9月24日(土) 福岡 BACKSTAGE

    ピアノ 内田由美子さん

    ベース 森しのぶさん

    ドラム なりしげひろしさん

 

  9月25日(日) 小倉 ミネラルダイニング・アジュール

    ピアノ 浮城久美子さん

    ベース 森しのぶさん

    ドラム なりしげひろしさん


 

  ■ 9月17日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

    ピアノ 工藤雄一さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム 森永哲則さん


 

  ■ 8月5日(金) 六本木 KEYSTONE CLUB 東京 (リーダーライブ)

    ピアノ 工藤雄一さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム なりしげひろしさん

 

  ■ 7月1日(土) 横浜関内 アドリブ (ゲスト出演)

    ピアノ 村山俊哉さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム なりしげひろしさん

 

  ■ 5月7日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

    ピアノ 工藤雄一さん

    ベース エディ百合野さん

    ドラム なりしげひろしさん

 

  ■ 3月29日(火) 横浜みなとみらい 葉山庵 (リーダーライブ)

    ピアノ 南野陽征さん

 

  ■ 2月27日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

    ピアノ 出口誠さん

    ベース 吉村由紀夫さん

    ドラム 森永哲則さん

 

2015年

  ■ 12月5日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

  ■ 10月23日(金) 横浜みなとみらい レストラン ダンゼロ

    ピアノ 工藤雄一さん

 

  ■ 10月9日(木) 六本木クラップス (朗読劇とのコラボレーションライブ)

 

  ■ 10月8日(金)    〃

 

  ■ 9月26日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

  ■ 5月30日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

  ■ 1月31日(土) 横浜関内 KAMOME live matters (リーダーライブ)

 

 

ごあいさつ

 こんにちは。

「はじめまして」または「おひさしぶり」

ジャズシンガーのスハニーです。

 

 私自身と、私の愛する音楽について、web site を通して発信いたします。ぜひおつきあいくださいませ。 この web site のタイトルは Sing or die, die or sing 「死ぬか歌うか、歌うか死ぬか」 またそんな物騒なタイトルを、と思う方もいらっしゃることと思いますが、私にとって歌手であり続けることは、正に生きることそのもの。 幾度となく「死」の予感を間近に感じつつも、今日まで生きることができたのは、「歌う」ため。 選択はいつも2つ。死ぬか歌うか、歌うか死ぬか。 この命ある限り、歌いつづける覚悟を表わしてみました。

 

スハニーについて

 本名は石尾ひとみ。1964年1月22日生まれ。 東京生まれ、現在は横浜在住。 フリーランスでマーケティングリサーチ、ライター、モデルなどの経験を経て、28年間自営業を続けている。 そのかわたら、音楽活動を続け、90年代から都内のジャズクラブで歌うようになる。 2010年、ジャズ専門レーベル Art of spirit(s) より、アルバム「La,la,mu」をリリース。 横浜を中心にライブ活動を行っている。 また毎週木曜日22時~23時 fmカオン「スイングな夜」パーソナリティをつとめている。

 

WORDS

 人生50年以上生きてきますと、昔のことを思い出しつつ、いろいろな思い出がリンクして、どちらが先だったのか、何にヒントを得て行動を起こしたのか、時折わからなくなってしまうことがあるのです。自分自身のバイオグラフィーをまとめようとしたときに、とても時系列にはまとめきれない、そう思い、キーワードごとに書いてみることにしました。嘘や飾りのないありのままの言葉です。

 


 大好きな海。東京で育った私は、家族旅行で海へ行くというと、熱海や伊東。すこし近場で日帰りで行くなら江の島といったところでした。海の家や砂浜で過ごす時間が大好きで「私は大人になってもずっと海に遊びに来る人間でいたい」と強く決意したものです。

 

 ちょうど20歳のとき、友達と沖縄旅行に出かけ、その美しい風景に魅せられました。またグラスボートなるものに初めて乗船して、床に張られたガラスを通して見た海中の様子に目が釘づけに。こんな美しいものに触れないで人生を過ごすことはできない、と思い、東京に帰ってから、スキューバダイビングのトレーニングを受けることを企てました。


 とはいうものの、当時の若い私にはとても高価な趣味で、どんなに計算しても実現できそうにありません。それでもどうしてもやりたい、と考えているうちに、ある日、電車の中で幼馴染じみの友達にばったりと出会いました。彼女は商社に勤めておりそこではダイビングの器材を輸入していました。社員にインストラクターがいて同好会のような形でトレーニングが受けられると言います。「トレーニングを受けたい人、あと一人探しているのよ」と言うのです。プロショップでトレーニングを受ける費用より10分の1ほどの出費で受けられることになりました。


 このあと数年の間、スキューバダイビングのとりことなり、伊豆、伊豆七島、小笠原諸島、奄美諸島、沖縄、と美しい海を潜り歩きました。途中からは、これも経費節約のため、インストラクターやガイドのアシスタントを受け持つようになり、自分の経費はかからないようにツアーに参加できるようになりました。その後、仕事の転機を迎えフリーランスになると決めたとき、ダイビング雑誌や旅雑誌から誘いを受け、モデル兼ライターとして、様々な海を潜り、その土地の紀行文を書くという仕事にも発展していったのです。海中でも様々な経験をしました。その話はまた別項で書くことにします。

 


ピアノ

 私には5歳年上の姉がおり、幼い頃の私の憧れの存在でした。その姉がオルガンを弾いていたのです。近所のピアノの先生のご自宅にお稽古に通っていたのですが、本格的なピアノを買う前に、まずはオルガンで手馴らしということだったのでしょう。いつか私もあれをやりたい、そう思っていました。姉のお稽古について行くことを許された日は、一緒に行って、先生の言うことを真剣に聞いていました。そして、ついに私にもそのお稽古に通える日がきました。小学校にあがる前だったと思います。嬉しくて嬉しくて、一生懸命練習しました。


 最初の数年はオルガンでしたが、まもなく、母が本物のピアノを買ってくれることになりました。この日、学校から帰ると、父と母と私で、渋谷の道玄坂にあるヤマハにピアノを見に行きました。どれがいいとか、そんなことを子どもに聞いたりする両親ではありません。私もそんなことを口出しすることはしません。けれども、黒いピアノ、白いピアノ、木目のピアノ、いろいろなピアノを見て、ぼうっとしてしまったことをおぼえています。しばらくお店の人に案内してもらったあと、どうやらどのピアノを買うのか決まったようでした。それは木目のピアノでした。私はてっきり黒いピアノになるだろうと思っていたので、少々驚きました。なぜなら、その頃、私の両親は保守的な選択をすると思っていたからです。ピアノといえば黒、とだいたいのところ決まっているではありませんか。白いピアノなんて、当時は少女漫画に出てくるようなイメージか、ショーのためのピアノというイメージ。私の両親がそれを選ぶことはまずないでしょう。木目のピアノは家具のようで品格も感じさせましたが、「え、黒のピアノじゃないんだ」という驚きと、「ピアノを家具みたいに考えているなんて、私がどれほど真剣にピアノのお稽古に取り組んでいるのかわかっていないんだな」という思いが沸き上がりました。もちろん口に出すことはしませんでした。しかし、数日後、自宅にそのピアノが入ると、私にとって大のお気に入りになったのは言うまでもありません。そのピアノは、自宅の1階の小さな部屋に置かれました。三畳ほどの本当に狭いスペースで、そこはピアノを弾くためだけの部屋になり、学校から帰ってからのほとんどの時間をその部屋で過ごしていました。やがて、姉は勉強や中学の部活動が忙しくなったから、という理由でピアノのお稽古に通うことを辞めました。勉強や運動、何をやっても姉以上の成績をとれなかった私は、「ピアノを続けていけば、一つだけでも姉以上の実力をつけることができるかもしれない」そんな希望もありました。一番ピアノを弾いていた時期は、中学と高校の6年間で、一日に2時間以上、学校を休んだ日は5時間以上でも弾いているような子でした。学校を休む日、、、そう実はよく学校を休む子だったのです。

 


健康法

 幼い頃の思い出で、よく憶えているのは、幼稚園や学校に行かないで寝ていた日のことです。私の実家は貴金属製造業を営んでいたので、家の一階に父の経営する会社があり、家に誰もいないということはありません。私は風邪をひきやすく、一度ひくと長引いて必ずと言っていいほど気管支炎を引き起こすのです。10月か11月、季節の変わり目に風邪をひくと、その風邪がきちんと治るのは、翌年のゴールデンウィークが終わってから、とそんな調子でした。少しよくなると学校に行き、体育は見学、それでもまた体調を悪くして一週間単位で休むといったサイクルを繰り返すのです。自分でも気管支の細くなっているのがわかるので、トイレまで歩くのもそろりそろり。ストローで空気を吸うような呼吸でそうっと自分の身体を動かさなくてはなりませんでした。


 そして私がすごく憂鬱だったのは、夕方から夜、そして明け方まで続く咳です。夕方に一つ「コン」と咳が出てしまうと、あとはそれに続く咳に耐えるために、背中を固くして朝を待つばかり。その夜の長いこと。そんな気管支炎も小学校高学年になると成長にともなって体力や免疫力が上がったのか、だんだんと軽くなっていったように思えたのですが、13歳、中学2年の秋に、それまでの私の人生でも最大級の風邪に見舞われ、その風邪をきっかけにして再び気管支炎の症状が重たくなってしまったのです。これは、その後、20代、30代とずっと続いていきました。おまけに、咳を我慢して身体に力が入ることから、胃腸の調子まで壊してしまうという、病のスパイラルを引き起こし、錠剤と粉薬を10種類以上飲む日も少なくありませんでした。よくそんな弱点を抱えながら歌手になろうとしたもんだ、と自分でも思います。実際、30代のある年、11月頃から気管支炎の症状が重くなり、歌手としての仕事が一番忙しくなるクリスマスシーズンに声が張れない、楽屋で気管支拡張剤を吸引してステージにあがるような日もありました。ある日は無理をして声を張ってしまい、翌朝にまったく声が出なくて自分でも驚いたことがありました。仕事の連絡をしたくて電話をしようとして、自分の声が出ないことに気づき、よく知っている相手なのに、イタズラ電話だと思われて電話が切られてしまったのです。その頃は、番号通知などはまだありませんでしたから。そんな経験を経て、自分の喉や気管支とのつきあい方も憶えていきました。


 40代にはいり、私の身体に皮肉な贈り物が届きました。「キャンサープレゼント」です。何が私の身体に癌細胞を作っていったのか、それはわかりません。子どもの頃から大量に飲んできた薬のせいなのか、無理を押して睡眠時間を削っても仕事をする自分のライフスタイルなのか、何でも真正面から向き合ってストレスを逃がすことの苦手な性格のせいなのか。子宮頸癌の宣告を受けたときは、たいへんなショックでありましたが、私はこれを数年かけて克服することになります。その話はまた別項に詳しく書くつもりです。が、なぜ私がこれを「キャンサープレゼント」と呼ぶか。それだけはこの項の結びに書いておきます。私は癌を克服するために、徹底的に自分の身体に向き合うことになりました。食事について深く考えるようになり、ヨガで体のめぐりを改善するなど、これまで思っていてもなかなか実行できなかったことを一つ一つやっていきました。この時期、死というものをかなり意識していました。実際に、同じ時期に同じ病とつきあっていた人の何人もの人が命を終えていくのを見送りました。欲に任せて好きなように生きてきた私には、まだ恩返しをしなくてはいけない人たちがたくさんいました。このまま命を終えるわけにはいかない。この時はじめて「自分を大切にする」という責任を真剣に考えました。驚いたことに、数年後、私の身体から癌がなくなった時、気管支炎も一緒にいなくなっていたのです。


  今ではこうも思います。あれは、私自身がいつまでも離すことのできなかった、子どもの頃からのお気に入りのブランケットのようなものだったのだと。それがあることでどこか安心していたのでしょう。


 最近は風邪すらほとんどひかなくなりました。健康法というのもいろいろあるけど、世界に一つだけの自分の身体にとっての健康法は、誰もが自分にしかわからないものなのかもしれませんね。


 

スニッカーズ

 1987年ごろ、広告代理店でコピーライターをしていた友達から「今度、日本に上陸するスニッカーズというチョコレートのCMモデルのオーディションにどうしても1名推薦しなくてはならないんだけど、やってみない?」という誘いをもらいました。私は高校生時代、ティーン向けファッション雑誌のモデルをやったことが何回かあったものの、それはすべて写真モデルです。CMモデルというと、セリフや動きも含まれ、自分には未知の経験でしたから、当然、興味深々に応えました。「うんうん、やってみる」


 まずは一次オーディションです。指定されたのは青山一丁目のスタジオでした。もし知られたら絶対に行かせてもらえないという理由で、家族には一切内緒にし、「「CMオーディションだなんて言って、スタジオに行ったら裸にされて写真を撮られ後日それをネタに脅されるんじゃないか?」そんな不安も持ちながらも信頼する友達からの話ですから「まず大丈夫だろう」と自分に言い聞かせながら出かけました。


 一次オーディションの感触はとても良いものでした。普通の笑顔、歯が見えるぐらいの笑顔、チョコレートを食べているところ、いくつか指定されるままにポーズを取り、その日は帰りました。その日、撮影アシスタントで、待機している私たちをいろいろとお世話してくれた人がポツリと「このCMオーディションは今日で最終回、ぜんぶで220人ぐらいになったかな」と言うのを聞いて「ああ、これは単に「いい経験」になったな」と思いながら帰りました。私はティーン雑誌のファッションモデルの経験をした時、たかが157センチぐらいの自分にはモデルという仕事は向かない、ということを思い知らされていたからです。でもちょっとだけ「もしかしたら」という期待を心に残していました。なぜなら、私はチョコレートが大好きで、照明に照らされ、眩しく熱いそのスタジオの真ん中で、何度同じチョコレートを食べても、毎回、「本当に美味しい!」という気持ちでテスト撮影に臨んでいたからです。220人のなかで、もし一番チョコレートが好きな女の子が選ばれるなら、それは私。そう思いながら、たった一日のCMモデル気分を味わいながら帰路につきました。


 オーディションの話は家族には内緒です。ところが翌週、「二次オーディションに選出された」という知らせがきました。これはそろそろ両親に話さなくてはならない時がきたかもしれない、、、選ばれたことよりも、そのことがプレッシャーで、いっそ落選してくれたら良かったのに、という暗い気持ちでした。すこし考えた挙句、二次オーディションも内緒で受けることにしました。どうせ最後の一人に残りはしないだろう。この前とは別のスタジオを指定されました。もう裸にされる心配はしませんでした。その日に私が見たモデル候補は、10人以下でした。やはり、私以外は皆さん160センチ以上の身長の、いかにもプロっぽいモデルさんたちです。こういう時に他の候補とお喋りしてはいけないと所属事務所から指導されているのか、待ち時間に口をきく人は一人もいません。ツンとした感じの人が多く、一次オーディションの時よりもずっと緊迫した雰囲気です。それがなんとも居心地悪く、やはり落選すればよかった、いっそ辞退したほうがよかった、とそんなことを考えながら、自分の番を待っていました。スタジオに入ると、前回とはカメラマンも違い、偉い人なのか、まわりのスタッフもピリピリしていました。今日も美味しくチョコレートを食べて帰ろう、と開き直り、言われるままに何カットか撮り帰宅しました。広告代理店の友達からは、一応、ある事務所から出ていることになっているよ、と言われており、スタジオではその事務所の名前と自分の名前を言いましたが、その事務所の方に初めて会ったのは、本番の撮影の日。そう、つまり、私はその二次オーディションに合格し、220名のなかから1名選ばれた「初代スニッカーズガール」として、CM撮りをすることになったのです。


 最後の一人に選ばれたことを告げられたときは、「親に何て言おうか」という憂鬱と、シンクタンクに勤務し、一応、キャリアウーマン志向バリバリで仕事していた自分が「こんなチャラチャラしたことやっていいのか」という心の葛藤とで、単純に「嬉しい」という気持ちではありませんでした。本番の撮影では、監督のイメージ通りに動いたり喋ったりできず、やはり演技の勉強をしていない自分には難しいな、という印象でした。私は元々自我が強く、まして若かったこの頃に、「自分ではない誰か」になって演ずることは苦痛でした。たったの15秒、たったの30秒のCMでしたが、普通のOLが残業で小腹がすいて「お腹がすいたらスニッカーズ」と言った具合にチョコレートを食べるシーンですが、普通のOLという設定がどうしても気に入らないので、感情移入ができません。そのCMは放映回数は少なかったものの、しばらくの間、テレビに流れていましたが、あまり嬉しい気持ちにはなれませんでした。ところで、両親ですが、私が思っていたほどは怒っておらず逆にすこし嬉しそうだったのがなんとも意外な出来事でした。

 


写真モデル

 はじめてギャラをいただいて写真モデルをしたのは、高校生の時。ティーン向けファッション誌の小さな写真でした。身長160センチもない私には、カバー写真やページフルサイズの写真のお話がくることはなく、「こんなものかな、、、」と思っていたのです。ところが、23歳のとき、所属していたシンクタンクを退職すると、私のところに次々と雑誌モデルの仕事が舞い込んできたのです。それらはすべて、何かしらのスポーツやアドベンチャーに関連したモデルの仕事。私は当時、海ではダイビングを、山ではマウンテンバイクにまたがってクロスカントリーレースに出場していたのです。飛び込んでくる仕事は、旅雑誌やアウトドア雑誌、ダイビングや自転車の趣味雑誌など。これらの仕事で様々なロケ地に出かけました。沖縄、小笠原、ミクロネシアの島々、長野県や北海道の大自然のなかなど。まだ、自分の人生の実績らしいものがたいしてないこの若い時に、言葉にできないような美しい風景にたくさん出会いました。そしてそのたびに「なぜ私はここに立っているのだろう」「こんな美しい風景に出会わせてもらえる理由はなんだろう」と不思議に感じたものです。何か両手ばなしに「わーい」と喜んでばかりはいられない、そんな焦燥感にかられたものでした。そして自分なりに「きっとこのあと試練があるに違いない」「普通なら苦労が先で、いいことはあとから来るはずなのに、私の人生はそれが反対になっている」とそんな風に思っていたものです。それは、あながち間違っていなかったのかもしれません。


 それはさておき、このモデリングの役割は、私に多くのことを学ばせてくれました。自分一人では気づかないようなことを、カメラのファインダーを通してそこに映った自分の姿が教えてくれました。そして、私の撮影現場は、環境の整ったスタジオではなく、いつも自然の中でしたから、空模様、風、砂、光、そういうすべてのエレメントを自分の味方につけなくてはなりません。空も海も砂も花も草も、それらすべてが舞台です。沖縄でのロケ撮影中に台風に見舞われたこともあります。マウンテンバイクのレースでは、カーブを曲がり切れずブッシュに体を投げ出されたことも。空調の効いたスタジオでポーズをとっているモデル達とはまったく違う私のそんなスタイルを、私は心から誇りに感じ、写真のためにつくりこむことよりも、ある瞬間を切り取って様になることこそがモデルなんだ、そんな風に思い、日々のトレーニングをしていました。

 


いつか死ぬ日

 生まれてきたからには、人は皆、死ぬ日を迎えます。私は子どもの頃から死について考えることが好きな子どもでした。こんな死に方がいいな、いや、あんなのもいい、よくそんなことを空想する子どもでした。実際に死を意識したことも何度かありました。小学2年生の頃、自宅が火事になった時のことです。二階で兄と遊んでいた私たちは、あっという間に立ち込めた煙のなか、慣れた家のなかにもかかわらず、自分の立っている場所がどこだかわからない。このまま死んでしまうのか。兄に手を引かれながら、壁にそって窓辺まで行くと「飛び降りなさい」という大人の声。無我夢中で2階の窓から飛び降りたのです。昔のことですから、降りた場所はコンクリート舗装されていない土の上でした。それでも、小さな踵に、チーンとした痛みが走ったことを今も生々しく思い出します。また、自分でも危ないことをよくする子でした。車に引かれそうになって運転手から怒鳴られたこともありました。海や山でも何度か、死と隣り合わせということがありました。どうも私は「何が何でも生きる」というこだわりが希薄だったのかもしれません。気管支炎で呼吸が苦しく、このまま次は息が吸えないかも、これが最後の呼吸かも、と意識が遠のくようなことを何度も経験してきたからなのでしょうか。死にたくないという気持ちよりも、死ぬ前に見ておきたい、という欲の方が勝っていたのかもしれません。不思議なぐらいに今も、死ぬ日が来ることに恐怖を覚えないのです。それはいつか来る。もしそれが今日だとしても、文句を言うつもりはありません。その日が来るまで自然のままの自分であり続けることしかできないのです。しかし、できればこんな死に方をしたい、という希望があります。できれば、生物界の食物連鎖の一環のなかで命を終わりたいのです。例えば、鮫に食べられる、熊に食べられる、というのは実にいいです。腐敗して土になる、蛆に喰われるというのもいいです。私の愛する地球の生き物の一部として命を終えたい。火で焼かれて骨だけになり、壺に入れられて石の下に眠る、そんな死後は私は望みません。

 


1964年1月22日 誕生

 両親は男の子の名前しか用意していなかったらしいのですが、それは私が母のお腹のなかであまりにも暴れたからだ、と言います。生まれてみたら、目の大きな女の子だったということで「ひとみ」と名付けられました。そのせいかどうかはわかりませんが、「男の子に生まれたかった」という気持ちを強く持っていて「女の子だからそんなことをしちゃあダメだよ」と言われることは徹底的にやり倒すような性格で、かなりのオテンバ娘だったようです。ちなみに用意されていた男の子の名前は「聡」で、のちに我が家の犬にその名前がつけられていました。

1964年生後3か月


世田谷区池尻

 生まれ育ったのは、東京都世田谷区池尻。姉、兄に続く末っ子です。 父の営んでいた自営業の貴金属製造業の工場が自宅内にあり、従業員の方や取引先の方など、多くの人が出入りする家でした。

世田谷区池尻


お兄ちゃん

 大好きなお兄ちゃんに、よく遊んでもらいました。男の子の遊びにいれてもらって、虫取りに出かけたりもしました。音楽も一緒に聴きました。特に、小学生後半から洋楽をよく聴いていて、私は兄に「カーペンターズになろう」と話を持ちかけていました。私としては、ものすごく真剣な将来計画でしたが、兄の反応はいつも「え」と言ってそれ以上の言葉は返ってきませんでした。兄は海外のラジオ電波を受信したり、ラジオを自作したり、当時、秋葉原に一緒について行って、無線機の部品屋さんなどで買い物をした記憶があります。兄がアマチュア無線局「JJ1NWU」を開局し、音楽をかけてDJみたいなことをやっていた時期があり、その番組中にレコードの埃を拭いたり、針を下すのが私の役割でした。これは実に楽しい作業で、土曜日の番組の時間のために、スティービー・ワンダーやダイアナ・ロスなどのアルバムを聴いて選曲を楽しんでいました。大人になってからも一緒に暮らしていた時期があり、兄が39歳で他界するまでずっと仲良しでした。もし私が女優なら、号泣するシーンの撮影をする時は、簡単です。兄の死を思うと、いつでも滝のように涙が出るからです。今もラジオ番組「スイングな夜」をライフワークにしているのは、この兄との良い思い出と関係している気がします。

お兄ちゃん


1970年頃の横浜山下公園

 姉に手をつないでもらってご機嫌の私。世田谷から家族でドライブに来たのでしょうか。 まさか将来、この街でジャズを歌うようになるとは、誰も想像していなかったでしょう。 数十年後に、私の生きる場所となった横浜。その象徴的な場所である山下公園でのこの写真が私のお気に入りです。

横浜山下公園


1980年代、雑誌のモデルをしていた頃

 台風一過の竹富島コンドイビーチ。 強い風の影響で珍しい砂紋があらわれたのです。

竹富島コンドイビーチ


1990年代、都内のジャズクラブで歌い始めた頃

1990年代


2000年代、レパートリーの充実にともないステージの依頼が増えました

 ジャズクラブのほか、レストラン、リゾートホテル、人の大勢集まるショッピングモールの野外ステージでクリスマスソングを歌うことも。ジャズが好きでクラブに足をむけてくださるお客様だけでなく、お出かけ先で予期せずに生のジャズ演奏を耳にした人々が、足をとめてそこに立ち止り、しばし私の歌に耳を傾けてくれる、そんなお客様の姿を見ながら歌うのも、実に楽しいことなのです。

2000年代


アルバム「La,la,mu」

 以前から「ジャズはそこに流れるエア」つまり、その時その場にあるもので録音して繰り返し聴く音楽とは考えていなかった私は、アルバム制作にはあまり興味をもっていませんでした。しかし、40代に子宮頸癌を発症し「5年生存率50%」の宣言を受けたことが大きなきっかけとなり、元気で活動できるうちにアルバム1枚だけでも制作しておこう、という気持ちになったのです。サウンドプロデュースはギタリストの小野晃さんです。このアルバム制作で「自分のジャズとは何か」ということを真摯に向き合うようになりました。「もっと音楽をやりたい」「もっと自分のジャズを掘り下げたい」そう強く願うことが病気を遠ざけてくれたのだと信じています。2010年7月art of spirit(s)よりリリース。

スハニー


関内 KAMOME live matters

 アルバム「La,la,mu」のリリース記念に初出演させていただいたkamome。その後はスハニーのライブ活動の本拠地とさせていただいており、年4回ほどライブをしています。 店内のサウンド、お客様の居心地の良さ、フードサービス、そして、出演するミュージシャンへの配慮など、いつも素晴らしい環境を用意してくれています。 アルバム制作中は控え気味にしていたライブ活動を再開し、身体に無理をしないようにしながら、ライブの回数よりも一回一回の内容を充実するよう、曲のアレンジにこだわって音楽活動をしています。

スハニー


 

SONGS

 

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La, la, mu の囁き

 

音楽はいつも呼吸のように私に寄り添う

ジャズに身を浸すとき 体から La, la, mu が流れ出す

La, la, mu - それは古代人の最初の言葉

まだひとつひとつの意味を持つ言葉が生まれる前の

父性の La, la, la、母性の Mu, mu, mu

太陽の下で歌い踊り 月あかりでハミング

 

古代から言葉というものが伝承されてきた理由は

そうすることにより 喜びをわかちあい

悲しみをやわらげることができたから

叩いたり 弾いたり 声を響かせたり

永い時を経てなお かわらないもの

それが La, la, mu の響き

 

's Honey