WORDS
人生50年以上生きてきますと、昔のことを思い出しつつ、いろいろな思い出がリンクして、どちらが先だったのか、何にヒントを得て行動を起こしたのか、時折わからなくなってしまうことがあるのです。自分自身のバイオグラフィーをまとめようとしたときに、とても時系列にはまとめきれない、そう思い、キーワードごとに書いてみることにしました。嘘や飾りのないありのままの言葉です。
海
大好きな海。東京で育った私は、家族旅行で海へ行くというと、熱海や伊東。すこし近場で日帰りで行くなら江の島といったところでした。海の家や砂浜で過ごす時間が大好きで「私は大人になってもずっと海に遊びに来る人間でいたい」と強く決意したものです。
ちょうど20歳のとき、友達と沖縄旅行に出かけ、その美しい風景に魅せられました。またグラスボートなるものに初めて乗船して、床に張られたガラスを通して見た海中の様子に目が釘づけに。こんな美しいものに触れないで人生を過ごすことはできない、と思い、東京に帰ってから、スキューバダイビングのトレーニングを受けることを企てました。
とはいうものの、当時の若い私にはとても高価な趣味で、どんなに計算しても実現できそうにありません。それでもどうしてもやりたい、と考えているうちに、ある日、電車の中で幼馴染じみの友達にばったりと出会いました。彼女は商社に勤めておりそこではダイビングの器材を輸入していました。社員にインストラクターがいて同好会のような形でトレーニングが受けられると言います。「トレーニングを受けたい人、あと一人探しているのよ」と言うのです。プロショップでトレーニングを受ける費用より10分の1ほどの出費で受けられることになりました。
このあと数年の間、スキューバダイビングのとりことなり、伊豆、伊豆七島、小笠原諸島、奄美諸島、沖縄、と美しい海を潜り歩きました。途中からは、これも経費節約のため、インストラクターやガイドのアシスタントを受け持つようになり、自分の経費はかからないようにツアーに参加できるようになりました。その後、仕事の転機を迎えフリーランスになると決めたとき、ダイビング雑誌や旅雑誌から誘いを受け、モデル兼ライターとして、様々な海を潜り、その土地の紀行文を書くという仕事にも発展していったのです。海中でも様々な経験をしました。その話はまた別項で書くことにします。
ピアノ
私には5歳年上の姉がおり、幼い頃の私の憧れの存在でした。その姉がオルガンを弾いていたのです。近所のピアノの先生のご自宅にお稽古に通っていたのですが、本格的なピアノを買う前に、まずはオルガンで手馴らしということだったのでしょう。いつか私もあれをやりたい、そう思っていました。姉のお稽古について行くことを許された日は、一緒に行って、先生の言うことを真剣に聞いていました。そして、ついに私にもそのお稽古に通える日がきました。小学校にあがる前だったと思います。嬉しくて嬉しくて、一生懸命練習しました。
最初の数年は自宅にピアノはなくオルガンで練習していましたが、まもなく、母が本物のピアノを買ってくれることになりました。この日、学校から帰ると、父と母と私で、渋谷の道玄坂にあるヤマハにピアノを見に行きました。どれがいいとか、そんなことを子どもに聞いたりする両親ではありません。私もそんなことを口出しすることはしません。けれども、黒いピアノ、白いピアノ、木目のピアノ、いろいろなピアノを見て、ぼうっとしてしまったことをおぼえています。しばらくお店の人に案内してもらったあと、どうやらどのピアノを買うのか決まったようでした。それは木目のピアノでした。私はてっきり黒いピアノになるだろうと思っていたので、少々驚きました。なぜなら、その頃、私の両親は保守的な選択をすると思っていたからです。ピアノといえば黒、とだいたいのところ決まっているではありませんか。白いピアノなんて、当時は少女漫画に出てくるようなイメージか、ショーのためのピアノというイメージ。私の両親がそれを選ぶことはまずないでしょう。木目のピアノは家具のようで品格も感じさせましたが、「え、黒のピアノじゃないんだ」という驚きと、「ピアノを家具みたいに考えているなんて、私がどれほど真剣にピアノのお稽古に取り組んでいるのかわかっていないんだな」という思いが沸き上がりました。もちろん口に出すことはしませんでした。しかし、数日後、自宅にそのピアノが入ると、私にとって大のお気に入りになったのは言うまでもありません。そのピアノは、自宅の1階の小さな部屋に置かれました。三畳ほどの本当に狭いスペースで、そこはピアノを弾くためだけの部屋になり、学校から帰ってからのほとんどの時間をその部屋で過ごしていました。
やがて、姉は勉強や中学の部活動が忙しくなったから、という理由でピアノのお稽古に通うことを辞めました。勉強や運動、何をやっても姉以上の成績をとれなかった私は、「ピアノを続けていけば、一つだけでも姉以上の実力をつけることができるかもしれない」そんな希望もありました。一番ピアノを弾いていた時期は、中学と高校の6年間で、一日に2時間以上、学校を休んだ日は5時間以上でも弾いているような子でした。学校を休む日、、、そう実はよく学校を休む子だったのです。
恋人としてのモーツァルト、ショパン、ベートーベン
私はとても子どもの教育に熱心な家庭に生まれました。両親ともに戦時時代の教育を受けた世代だったこともあり、子どもが親に口答えするなどもってのほか、親が決めたことは絶対であり、迂闊に今夢中になっていることを口に出してしまうとこてんぱんに論破され「だからそんなことに現を抜かしていては駄目だ」という結論に首を縦にしなくてはならなくなります。姉や兄はそれに従っていたように見えましたが、末っ子の私はどうにかうまいこと姉と兄の傘に隠れ少しでも好きなことをしようとしていました。
そのために、今思うと大きな罪にならないような嘘ですが、よく親に嘘をついていました。例えば、ピアノのレッスンの帰りにレコード屋さんに寄ってR&Bやロックのサウンドに触れて帰る、しかし帰宅後には「レッスンが長引いた」と報告をする。こんな小さなことでも嘘は嘘なので、ついている自分もすこしずつ胸を痛めていました。家のなかにいて唯一嘘をつかなくても良いのは、クラシックの名曲を練習することだけだったように思います。私は恋をするように大作曲家の曲を弾いていました。
モーツァルトは最初の恋人です。「モーツァルトは胎教に良い」などと言われていましたが、それは私にはやや疑問です。「いかにも良い人」みたいな言われ方をするモーツァルトですが、曲のはじまりはたしかに「良い人」、しかし、それに引き込まれてついていくと、青空だったはずの天気が曇り、闇のなかで悪魔に追われる、もはや逃げられないところまで追い込まれたと絶望した途端、空の雲が晴れて光がさしこみ、最後は「あれはただの夢だったのか」と自分も騙されてしまうような終わり方をしたりします。そんなモーツァルトの魅力にはまり、何時間でも弾いていました。
二番目の恋人はショパン。モーツァルトの安定感に比べ、ショパンは「私が守ってあげなければ」という気持ちにさせられるような母性本能をくすぐられる存在でした。「大円舞曲」のような力強い曲もありますが、ワルツ集にあるような小曲にむしろそのショパンの人間臭さが表れていて、木の葉が舞い落ちるような不安定な曲調に魅せられました。
そして三番目に現れた恋人がベートーベンでした。ベートーベンのソナタ、それは私が幼少の頃から15年間指導をうけたクラシックピアノのレッスンの最終到達時点でした。もちろん世の中にはもっと難しい曲がたくさんあります。私も一時は大学のピアノ科を目指していたのですが、ベートーベンのソナタを弾いたとき「ここが最終到達時点でよい」と感じたのです。穏やかで美しくそして静かな激しさを内包した「月光」第一楽章、生きる悲しみと焦燥感のこめられた「悲愴」第一楽章など、ベートーベンの人生に何があったのか、私はいつもそれを思いながら時には涙を流しながらそれぞれの曲と向き合っていました。ある時、ピアノの先生に「そこはそんな風に長く溜めないで」「ここはもっと軽く」などの指導を受けた時「いいえ、ベートーベンはこう弾いてくれと私に語りかけています」と答えそうになり言葉を飲み込んだことがありました。
この頃から、言われたとおりに弾くのではなく、自分の解釈で弾こうとしていたことは、後にジャズを歌うようになってから自分の性質を更に知ることになり、先生の言葉を思い出して苦笑しました。またクラシックの曲を弾いていた頃から「ルートに対して3の音は5に置き換えても響きに影響はないみたい」とか「速さに指が追い付けないときは和音から省略できる」などを自然に感じていました。手の大きかったリストの曲などは、日本人女性の小さな手ではすべての音を押えきれない、そんな時にも低音の響きは左手に任せ、最も響かせなくてはならない音がしっかり出るように右手を使おう、などと勝手に少しアレンジをしていました。子どもの頃に十分にクラシックピアノに向き合った時間があったことは、後のスハニーの歌唱のベースになっていることは間違いありません。
恋人だったモーツァルト、ショパン、ベートーベンのほかにも軽くつきあっただけのボーイフレンドもたくさんいます。シューベルト、バッハ、サティ、それぞれに性格はいろいろで深く向き合うほどではなかったのですが、「あぁ、あなたの別れ際はいつもそうなのよね」とほほ笑んでしまうほど、今も大好きです。子どもの頃から勉強よりピアノが好きで自宅のピアノ室にこもりきりだった私は芸術学部ピアノ科のある大学付属の高校に進学し、そこを目指していたつもりでしたが、高校時代にいくつかのバンドをかけもちする演奏活動を経験し、クラシックよりもっと自由な音楽を楽しみたいという気持ちが高まったことと、ベートーベンのソナタを弾いたことでどこか「クラシックはここまでにしておこう」という気持ちに整理がついたように思います。そういう意味でベートーベンは私の究極の恋人なのかもしれません。
本当は幼い頃から「歌手になりたい」という夢を持っていたのですが、両親に話せば否定されるとわかっていたので、それを「ピアニストになりたい」という嘘に塗り替えていました。もちろんピアノを弾くことが大好きだったのは嘘ではありません。綺麗なドレスを着てクラシック曲を弾くピアニスト、どうしてもそれは私自身の将来像にしっくりこなかったのです。「芸術学部ピアノ科に進みたいのは、ピアニストになりたいから」そう言ってきたのに、進学しないことに決めたことについて、両親はあまりがっかりしていなかったようです。私の嘘を見抜いていたのかもしれませんね。
健康法
幼い頃の思い出で、よく憶えているのは、幼稚園や学校に行かないで寝ていた日のことです。私の実家は貴金属製造業を営んでいたので、家の一階に父の経営する会社があり、家に誰もいないということはありません。私は風邪をひきやすく、一度ひくと長引いて必ずと言っていいほど気管支炎を引き起こすのです。10月か11月、季節の変わり目に風邪をひくと、その風邪がきちんと治るのは、翌年のゴールデンウィークが終わってから、とそんな調子でした。少しよくなると学校に行き、体育は見学、それでもまた体調を悪くして一週間単位で休むといったサイクルを繰り返すのです。自分でも気管支の細くなっているのがわかるので、トイレまで歩くのもそろりそろり。ストローで空気を吸うような呼吸でそうっと自分の身体を動かさなくてはなりませんでした。
そして私がすごく憂鬱だったのは、夕方から夜、そして明け方まで続く咳です。夕方に一つ「コン」と咳が出てしまうと、あとはそれに続く咳に耐えるために、背中を固くして朝を待つばかり。その夜の長いこと。そんな気管支炎も小学校高学年になると成長にともなって体力や免疫力が上がったのか、だんだんと軽くなっていったように思えたのですが、13歳、中学2年の秋に、それまでの私の人生でも最大級の風邪に見舞われ、その風邪をきっかけにして再び気管支炎の症状が重たくなってしまったのです。これは、その後、20代、30代とずっと続いていきました。おまけに、咳を我慢して身体に力が入ることから、胃腸の調子まで壊してしまうという、病のスパイラルを引き起こし、錠剤と粉薬を10種類以上飲む日も少なくありませんでした。よくそんな弱点を抱えながら歌手になろうとしたもんだ、と自分でも思います。実際、30代のある年、11月頃から気管支炎の症状が重くなり、歌手としての仕事が一番忙しくなるクリスマスシーズンに声が張れない、楽屋で気管支拡張剤を吸引してステージにあがるような日もありました。ある日は無理をして声を張ってしまい、翌朝にまったく声が出なくて自分でも驚いたことがありました。仕事の連絡をしたくて電話をしようとして、自分の声が出ないことに気づき、よく知っている相手なのに、イタズラ電話だと思われて電話が切られてしまったのです。その頃は、番号通知などはまだありませんでしたから。そんな経験を経て、自分の喉や気管支とのつきあい方も憶えていきました。
40代にはいり、私の身体に皮肉な贈り物が届きました。「キャンサープレゼント」です。何が私の身体に癌細胞を作っていったのか、それはわかりません。子どもの頃から大量に飲んできた薬のせいなのか、無理を押して睡眠時間を削っても仕事をする自分のライフスタイルなのか、何でも真正面から向き合ってストレスを逃がすことの苦手な性格のせいなのか。子宮頸癌の宣告を受けたときは、たいへんなショックでありましたが、私はこれを数年かけて克服することになります。その話はまた別項に詳しく書くつもりです。が、なぜ私がこれを「キャンサープレゼント」と呼ぶか。それだけはこの項の結びに書いておきます。私は癌を克服するために、徹底的に自分の身体に向き合うことになりました。食事について深く考えるようになり、ヨガで体のめぐりを改善するなど、これまで思っていてもなかなか実行できなかったことを一つ一つやっていきました。この時期、死というものをかなり意識していました。実際に、同じ時期に同じ病とつきあっていた人の何人もの人が命を終えていくのを見送りました。欲に任せて好きなように生きてきた私には、まだ恩返しをしなくてはいけない人たちがたくさんいました。このまま命を終えるわけにはいかない。この時はじめて「自分を大切にする」という責任を真剣に考えました。驚いたことに、数年後、私の身体から癌がなくなった時、気管支炎も一緒にいなくなっていたのです。
今ではこうも思います。あれは、私自身がいつまでも離すことのできなかった、子どもの頃からのお気に入りのブランケットのようなものだったのだと。それがあることでどこか安心していたのでしょう。
最近は風邪すらほとんどひかなくなりました。健康法というのもいろいろあるけど、世界に一つだけの自分の身体にとっての健康法は、誰もが自分にしかわからないものなのかもしれませんね。
スニッカーズ
1987年ごろ、広告代理店でコピーライターをしていた友達から「今度、日本に上陸するスニッカーズというチョコレートのCMモデルのオーディションにどうしても1名推薦しなくてはならないんだけど、やってみない?」という誘いをもらいました。私は高校生時代、ティーン向けファッション雑誌のモデルをやったことが何回かあったものの、それはすべて写真モデルです。CMモデルというと、セリフや動きも含まれ、自分には未知の経験でしたから、当然、興味深々に応えました。「うんうん、やってみる」
まずは一次オーディションです。指定されたのは青山一丁目のスタジオでした。もし知られたら絶対に行かせてもらえないという理由で、家族には一切内緒にし、「「CMオーディションだなんて言って、スタジオに行ったら裸にされて写真を撮られ後日それをネタに脅されるんじゃないか?」そんな不安も持ちながらも信頼する友達からの話ですから「まず大丈夫だろう」と自分に言い聞かせながら出かけました。
一次オーディションの感触はとても良いものでした。普通の笑顔、歯が見えるぐらいの笑顔、チョコレートを食べているところ、いくつか指定されるままにポーズを取り、その日は帰りました。その日、撮影アシスタントで、待機している私たちをいろいろとお世話してくれた人がポツリと「このCMオーディションは今日で最終回、ぜんぶで220人ぐらいになったかな」と言うのを聞いて「ああ、これは単に「いい経験」になったな」と思いながら帰りました。私はティーン雑誌のファッションモデルの経験をした時、たかが157センチぐらいの自分にはモデルという仕事は向かない、ということを思い知らされていたからです。でもちょっとだけ「もしかしたら」という期待を心に残していました。なぜなら、私はチョコレートが大好きで、照明に照らされ、眩しく熱いそのスタジオの真ん中で、何度同じチョコレートを食べても、毎回、「本当に美味しい!」という気持ちでテスト撮影に臨んでいたからです。220人のなかで、もし一番チョコレートが好きな女の子が選ばれるなら、それは私。そう思いながら、たった一日のCMモデル気分を味わいながら帰路につきました。
オーディションの話は家族には内緒です。ところが翌週、「二次オーディションに選出された」という知らせがきました。これはそろそろ両親に話さなくてはならない時がきたかもしれない、、、選ばれたことよりも、そのことがプレッシャーで、いっそ落選してくれたら良かったのに、という暗い気持ちでした。すこし考えた挙句、二次オーディションも内緒で受けることにしました。どうせ最後の一人に残りはしないだろう。この前とは別のスタジオを指定されました。もう裸にされる心配はしませんでした。その日に私が見たモデル候補は、10人以下でした。やはり、私以外は皆さん160センチ以上の身長の、いかにもプロっぽいモデルさんたちです。こういう時に他の候補とお喋りしてはいけないと所属事務所から指導されているのか、待ち時間に口をきく人は一人もいません。ツンとした感じの人が多く、一次オーディションの時よりもずっと緊迫した雰囲気です。それがなんとも居心地悪く、やはり落選すればよかった、いっそ辞退したほうがよかった、とそんなことを考えながら、自分の番を待っていました。スタジオに入ると、前回とはカメラマンも違い、偉い人なのか、まわりのスタッフもピリピリしていました。今日も美味しくチョコレートを食べて帰ろう、と開き直り、言われるままに何カットか撮り帰宅しました。広告代理店の友達からは、一応、ある事務所から出ていることになっているよ、と言われており、スタジオではその事務所の名前と自分の名前を言いましたが、その事務所の方に初めて会ったのは、本番の撮影の日。そう、つまり、私はその二次オーディションに合格し、220名のなかから1名選ばれた「初代スニッカーズガール」として、CM撮りをすることになったのです。
最後の一人に選ばれたことを告げられたときは、「親に何て言おうか」という憂鬱と、シンクタンクに勤務し、一応、キャリアウーマン志向バリバリで仕事していた自分が「こんなチャラチャラしたことやっていいのか」という心の葛藤とで、単純に「嬉しい」という気持ちではありませんでした。本番の撮影では、監督のイメージ通りに動いたり喋ったりできず、やはり演技の勉強をしていない自分には難しいな、という印象でした。私は元々自我が強く、まして若かったこの頃に、「自分ではない誰か」になって演ずることは苦痛でした。たったの15秒、たったの30秒のCMでしたが、普通のOLが残業で小腹がすいて「お腹がすいたらスニッカーズ」と言った具合にチョコレートを食べるシーンですが、普通のOLという設定がどうしても気に入らないので、感情移入ができません。そのCMは放映回数は少なかったものの、しばらくの間、テレビに流れていましたが、あまり嬉しい気持ちにはなれませんでした。ところで、両親ですが、私が思っていたほどは怒っておらず逆にすこし嬉しそうだったのがなんとも意外な出来事でした。
写真モデル
はじめてギャラをいただいて写真モデルをしたのは、高校生の時。ティーン向けファッション誌の小さな写真でした。身長160センチもない私には、カバー写真やページフルサイズの写真のお話がくることはなく、「こんなものかな、、、」と思っていたのです。ところが、23歳のとき、所属していたシンクタンクを退職すると、私のところに次々と雑誌モデルの仕事が舞い込んできたのです。それらはすべて、何かしらのスポーツやアドベンチャーに関連したモデルの仕事。私は当時、海ではダイビングを、山ではマウンテンバイクにまたがってクロスカントリーレースに出場していたのです。飛び込んでくる仕事は、旅雑誌やアウトドア雑誌、ダイビングや自転車の趣味雑誌など。これらの仕事で様々なロケ地に出かけました。沖縄、小笠原、ミクロネシアの島々、長野県や北海道の大自然のなかなど。まだ、自分の人生の実績らしいものがたいしてないこの若い時に、言葉にできないような美しい風景にたくさん出会いました。そしてそのたびに「なぜ私はここに立っているのだろう」「こんな美しい風景に出会わせてもらえる理由はなんだろう」と不思議に感じたものです。何か両手ばなしに「わーい」と喜んでばかりはいられない、そんな焦燥感にかられたものでした。そして自分なりに「きっとこのあと試練があるに違いない」「普通なら苦労が先で、いいことはあとから来るはずなのに、私の人生はそれが反対になっている」とそんな風に思っていたものです。それは、あながち間違っていなかったのかもしれません。
それはさておき、このモデリングの役割は、私に多くのことを学ばせてくれました。自分一人では気づかないようなことを、カメラのファインダーを通してそこに映った自分の姿が教えてくれました。そして、私の撮影現場は、環境の整ったスタジオではなく、いつも自然の中でしたから、空模様、風、砂、光、そういうすべてのエレメントを自分の味方につけなくてはなりません。空も海も砂も花も草も、それらすべてが舞台です。沖縄でのロケ撮影中に台風に見舞われたこともあります。マウンテンバイクのレースでは、カーブを曲がり切れずブッシュに体を投げ出されたことも。空調の効いたスタジオでポーズをとっているモデル達とはまったく違う私のそんなスタイルを、私は心から誇りに感じ、写真のためにつくりこむことよりも、ある瞬間を切り取って様になることこそがモデルなんだ、そんな風に思い、日々のトレーニングをしていました。
シングルマザーの生活とジャズシンギング
1964年生まれの私と近い世代の人々は、日本社会の価値観が大きく変わる時代を生きてきたように思います。子どもの頃は経済高度成長期に入りつつもまだ戦後復興の時代、成人する頃はバブル経済華やかなりし時代。敗戦したことを忘れたかのように日本中が浮かれていた時代です。その後のバブル経済崩壊も経験しましたが、今思うとそれは一気にではなくゆっくりと壊れていったので、現在よりも景気の良い時間が続いていたように感じます。そんな中で私はフリーランスのライターやマーケティングリサーチ業を生業として独立しました。会社勤めは二社、合計4年とちょっとの間だけでしたので、今になってみると随分と無鉄砲な行動だったとも言えます。ただ、なかなか勤めながらでは自分の生きたいように生きられないという息苦しさを感じていたので、これが私の限界でした。フリーランスになってからはすべての時間を自分でコントロールできるようになり、メディアの取材のために海や山で過ごす時間と自宅で執筆する時間のバランスをとりながら、純粋なプライベートタイムは皆無でありながらも自分らしく生きている実感だけは人一倍味わっていました。インターネットどころか、パソコン通信すらまだ普及していなかった時代でしたが、原稿用紙と鉛筆を持って取材先のホテルで夜は原稿を書いている、今でいうリモートワーカー、ワーケーションを楽しむノマドワーカーのような生き方でした。ノートパソコンが持ち運びできるようになるのは、まだまだ後のことでした。
20代前半、早めに独立しておいたのは、いずれ結婚する日、いずれ子どもを持つ日のことを考えていたこともありました。1980年代、まだ女性の社会での活躍には様々な障害があり、男性と同じように活躍するには独身の道をいくしかないというのが大方の判断だったと思いますし、同世代にはその道を貫いた同輩もいます。結婚して一度仕事の最前線から退いた女性には、パートタイムの仕事しかない、そんな現実を考え、独身のうちに自分のポジションを確立しておこうという私なりの目論見がありました。フリーランスになった自由な立場を活かして、大手出版社の仕事をいくつも掛け持ちして神田や銀座の街を我が物顔で闊歩していました。厳しい親の元で行動に規制の多かった自分自身の子ども時代に納得していなかった気持ちもあり、自分もいつか母親になって納得する子育てをしたいという気持ちもありましたから、こうしてフリーランスで取引先との関係性をしっかりと確立しながら、タイミングがきたら結婚や出産もしていこうという我儘で欲張りな私の人生計画でした。
そんな私の生き方を認めてくれる男性がいて一度結婚しましたが、結局、息子が幼いうちにその子を連れて家を出ることになりました。結婚相手が悪かったわけではなく、むしろ今も感謝しています。こんな我儘な私と結婚してくれたこと、息子を授けてくれたことも。不器用で仕事と家庭生活の両立がうまくできなかったこと、自分で自分の幸せが何なのかがまだわからなかったこと、離婚の理由を言葉で表すのはとても難しいですが、後に幸せな結婚生活を継続している友人達の生き方を見ていると、私には自分以外の人の応援を受ける力がなく、人に甘えるのがとても苦手だったのではないかと思います。シングルマザーとなった私は、もう一度、自分の力で自分の人生を積み上げていくことになり、苦労も人一倍しましたが自分で決めたことを自分で実行していくという生き方が私の人生なのだと納得しながら歩みました。まだ小学校に入る前の幼い息子の寝顔を見ながら、この子を一人で育てていく責任や、バブル経済崩壊後に日本の社会がいよいよ深刻化してきたなか、自分の仕事の受注の難しさを感じ、夜中にとてつもない不安にかられたことが何度もありました。
そんな時、「どうしたら良いんだろう」「私はもっと輝けるはず」と頭が混乱するなか、稲妻のように閃いたのです。「今の私には音楽がない!」慎ましい生活のなかでも好きな音楽を聴いていましたが、私にとって音楽は聴くものではなく奏でるものであったはずなのに、いつのまにか鍵盤のない生活をしていました。しかも、息子と二人で暮らしていた小さな部屋には、電子ピアノさえも置くことができない。どうしたら音楽を取り戻すことができるだろう。毎日そのことばかりを考えていました。自分が音楽で一番輝いたのはいつのことだっただろうと記憶をたどると、高校時代にいくつものバンドをかけもちして活動していた頃のことにたどり着きました。その時、高校生バンドにしては結構難しいフュージョンをやっていたバンドでコンサートを開いた時、「インストゥルメンタルだけより、すこしボーカルも入ったほうが良いんじゃない?」というギタリストの提案で、私がボーカルをとったことがありました。子どもの頃「歌手になりたい」という夢があったので、とても印象的な思い出になっていました。「そうだ、この機会にボーカルをやってみよう」「ボーカルの練習ならば、楽器を置けないこの部屋でもできる」「でも何を歌ったらよいのだろう」いろいろな思いがめぐりました。
洋楽を聴いて育った私には、ポピュラーミュージックの旋律に日本語の歌詞で歌うことがうまくできず、J-POPというものもほとんど聴いたことがありませんでした。その頃、一番好きなのはR&Bだったと思いますが、一体どうやって手をつけたら良いのだろう。考えているうちに、R&Bシンガーでとても迫力のある歌い方をするDee Dee Brighdewaterという女性歌手が、その後にジャズシンガーに転向したことからヒントを得て「ジャズボーカルをやってみよう」という発想に至りました。ジャズやブルースはR&Bやロックミュージックのルーツでもあるわけだからジャズボーカルができたら様々な応用がきくんじゃないかな、という見立てもありました。
この時、強く決断したことがありました。シングルマザーの生活に経済的な余裕はなく、趣味として音楽をすることはできないし、私は望まない。最初の数年は修行に徹することになるのは致し方ないとして、必ず出演ギャラを受け取れるプロ活動をするようになること。自分に対してそれを条件に突き立て、ジャズボーカルの先生から指導を受けるようになりました。実際に歌いはじめてみると、スタンダードジャズの名曲を歌うことはこの上なく楽しく、読譜力もあったので自分の歌いやすい音程に転調して譜面を書いたりすることもとても楽しい作業でした。先生の経営するジャズクラブで数曲だけ歌わせてもらうような経験を積み、’s Honeyというシンガーネームでジャズトリオを伴い、一晩に3ステージ、20曲ほど歌えるようになったのは、それから10年ほど経った頃です。
歌うことは技術的なことよりマインドの課題で、そうすぐにうまくはいきませんでした。お客様の前で裸になれるぐらいの度胸がなければ、プロのステージはつとまらないからです。初めてのワンマン出演は、当時、西麻布にあった「Misty」というクラブでした。とても好きなクラブで、満席で30~40席ぐらいのお店です。修業時代にはこの店への出演をずっと憧れていました。初出演の日、3ステージそれぞれにたくさんのお客様が聴きに来てくれてその来店人数が76名。ギャラを受け取る時にマスターから「お店はじまってから今までで一番の入りだよ」と言われ、天にも昇るような喜びを感じました。しばらくの間、自分の譜面入れのポケットに裏向きにその日のギャラの計算書を忍ばせ「何があってもジャズを歌い続けていこう」と自分を励ましていました。
シングルマザーの生活、フリーランスの不安定な経済状況、なぜ自分がわざわざ困難な道を選んでしまうのか、私の心理に何が潜んでいたのか、今ならすこし理解できますが、当時はいろいろなパズルのピースがバラバラに見えるだけで全体の絵が見えてこないもどかしさがありました。そんな日々のなかでジャズを歌うことで不思議と心が整っていきました。ジャズの曲は時に難しく、向き合うほどに深みがあり、うまく歌えた時には、芯から私を満足させてくれました。またスタンダードナンバーの数々の歌詞からも勇気をもらいました。こうしてシングルマザーの私の生活のなかに、ジャズシンギングが根づいていきました。なんとも不器用な生き方ですが、遠回りしながらすこしずつ本当の自分の望む生き方に近づいていたように思います。
いつか死ぬ日
生まれてきたからには、人は皆、死ぬ日を迎えます。私は子どもの頃から死について考えることが好きな子どもでした。こんな死に方がいいな、いや、あんなのもいい、よくそんなことを空想する子どもでした。実際に死を意識したことも何度かありました。小学2年生の頃、自宅が火事になった時のことです。二階で兄と遊んでいた私たちは、あっという間に立ち込めた煙のなか、慣れた家のなかにもかかわらず、自分の立っている場所がどこだかわからない。このまま死んでしまうのか。兄に手を引かれながら、壁にそって窓辺まで行くと「飛び降りなさい」という大人の声。無我夢中で2階の窓から飛び降りたのです。昔のことですから、降りた場所はコンクリート舗装されていない土の上でした。それでも、小さな踵に、チーンとした痛みが走ったことを今も生々しく思い出します。また、自分でも危ないことをよくする子でした。車に引かれそうになって運転手から怒鳴られたこともありました。海や山でも何度か、死と隣り合わせということがありました。どうも私は「何が何でも生きる」というこだわりが希薄だったのかもしれません。気管支炎で呼吸が苦しく、このまま次は息が吸えないかも、これが最後の呼吸かも、と意識が遠のくようなことを何度も経験してきたからなのでしょうか。死にたくないという気持ちよりも、死ぬ前に見ておきたい、という欲の方が勝っていたのかもしれません。不思議なぐらいに今も、死ぬ日が来ることに恐怖を覚えないのです。それはいつか来る。もしそれが今日だとしても、文句を言うつもりはありません。その日が来るまで自然のままの自分であり続けることしかできないのです。しかし、できればこんな死に方をしたい、という希望があります。できれば、生物界の食物連鎖の一環のなかで命を終わりたいのです。例えば、鮫に食べられる、熊に食べられる、というのは実にいいです。腐敗して土になる、蛆に喰われるというのもいいです。私の愛する地球の生き物の一部として命を終えたい。火で焼かれて骨だけになり、壺に入れられて石の下に眠る、そんな死後は私は望みません。
1964年1月22日 誕生
両親は男の子の名前しか用意していなかったらしいのですが、それは私が母のお腹のなかであまりにも暴れたからだ、と言います。生まれてみたら、目の大きな女の子だったということで「ひとみ」と名付けられました。そのせいかどうかはわかりませんが、「男の子に生まれたかった」という気持ちを強く持っていて「女の子だからそんなことをしちゃあダメだよ」と言われることは徹底的にやり倒すような性格で、かなりのオテンバ娘だったようです。ちなみに用意されていた男の子の名前は「聡」で、のちに我が家の犬にその名前がつけられていました。
世田谷区池尻
生まれ育ったのは、東京都世田谷区池尻。姉、兄に続く末っ子です。
父の営んでいた自営業の貴金属製造業の工場が自宅内にあり、従業員の方や取引先の方など、多くの人が出入りする家でした。
お兄ちゃん
大好きなお兄ちゃんに、よく遊んでもらいました。男の子の遊びにいれてもらって、虫取りに出かけたりもしました。音楽も一緒に聴きました。特に、小学生後半から洋楽をよく聴いていて、私は兄に「カーペンターズになろう」と話を持ちかけていました。私としては、ものすごく真剣な将来計画でしたが、兄の反応はいつも「え」と言ってそれ以上の言葉は返ってきませんでした。兄は海外のラジオ電波を受信したり、ラジオを自作したり、当時、秋葉原に一緒について行って、無線機の部品屋さんなどで買い物をした記憶があります。兄がアマチュア無線局「JJ1NWU」を開局し、音楽をかけてDJみたいなことをやっていた時期があり、その番組中にレコードの埃を拭いたり、針を下すのが私の役割でした。これは実に楽しい作業で、土曜日の番組の時間のために、スティービー・ワンダーやダイアナ・ロスなどのアルバムを聴いて選曲を楽しんでいました。大人になってからも一緒に暮らしていた時期があり、兄が39歳で他界するまでずっと仲良しでした。もし私が女優なら、号泣するシーンの撮影をする時は、簡単です。兄の死を思うと、いつでも滝のように涙が出るからです。ジャズのラジオ番組「スイングな夜」に長く関わっていたのは、この兄との良い思い出と関係している気がします。
1970年頃の横浜山下公園
姉に手をつないでもらってご機嫌の私。世田谷から家族でドライブに来たのでしょうか。
まさか将来、この街でジャズを歌うようになるとは、誰も想像していなかったでしょう。
数十年後に、私の生きる場所となった横浜。その象徴的な場所である山下公園でのこの写真が私のお気に入りです。
1980年代、雑誌のモデルをしていた頃
台風一過の竹富島コンドイビーチ。
強い風の影響で珍しい砂紋があらわれたのです。
1990年代、都内のジャズクラブで歌い始めた頃
2000年代、レパートリーの充実にともないステージの依頼が増えました
ジャズクラブのほか、レストラン、リゾートホテル、人の大勢集まるショッピングモールの野外ステージでクリスマスソングを歌うことも。ジャズが好きでクラブに足をむけてくださるお客様だけでなく、お出かけ先で予期せずに生のジャズ演奏を耳にした人々が、足をとめてそこに立ち止り、しばし私の歌に耳を傾けてくれる、そんなお客様の姿を見ながら歌うのも、実に楽しいことなのです。
アルバム「La,la,mu」
以前から「ジャズはそこに流れるエア」つまり、その時その場にあるもので録音して繰り返し聴く音楽とは考えていなかった私は、アルバム制作にはあまり興味をもっていませんでした。しかし、40代に子宮頸癌を発症し「5年生存率50%」の宣言を受けたことが大きなきっかけとなり、元気で活動できるうちにアルバム1枚だけでも制作しておこう、という気持ちになったのです。サウンドプロデュースはギタリストの小野晃さんです。このアルバム制作で「自分のジャズとは何か」ということを真摯に向き合うようになりました。「もっと音楽をやりたい」「もっと自分のジャズを掘り下げたい」そう強く願うことが病気を遠ざけてくれたのだと信じています。2010年7月art of spirit(s)よりリリース。
関内 KAMOME live matters(2019年に閉店)
アルバム「La,la,mu」のリリース記念に初出演させていただいたkamome。その後はスハニーのライブ活動の本拠地とさせていただいており、年4回ほどライブをしていました。
店内のサウンド、お客様の居心地の良さ、フードサービス、そして、出演するミュージシャンへの配慮など、いつも素晴らしい環境を用意してくれました。 ここで歌う時、シカゴの名門ジャズクラブ「ロンドンハウス」をホームのようにしてアフターセッションをしていたサラ・ボーンはこんな気持ちだったのかなと今も懐かしく思い出します。